学運協の皆さんと教職員が恩方探訪に行ってきました!②
- 公開日
- 2025/08/28
- 更新日
- 2025/08/28
学運協・青少対・PTA
前回に引き続き、「恩方探訪」の第2回。興慶寺のあとは宮尾神社に訪問です。ここも恩方中学校に縁のある場所です。
恩方中学校の校歌の作詞を行った中村雨紅先生。生家は上恩方町にある宮尾神社です。
正式には住吉神社琴平神社合社といいます。住吉神社琴平神社合社は、宮尾山に鎮座することから宮尾神社の通称で知られています。また、小名・高留にあることから高留住吉社とも呼ばれ、いわゆる全国の住吉大社と同じく住吉三神を祀られている神社として、元暦年間(1184~85)の創建、明暦年間(1655~58)の再興と伝えらています。元暦年間は、鎌倉幕府がスタートした1185年とほぼ同時期です。明暦年間は、1657年明暦の大火で有名になった元号です。江戸時代前期の鎖国が完成し、幕藩体制が強化された時期です。
明治初年、琴平大神を合祀しました。琴平大神とは、主に香川県の「金刀比羅宮(ことひらぐう)」を指し、航海安全、豊漁、商売繁盛、五穀豊穣などに御利益があると信仰される大物主神(おおものぬしのかみ)を祭る神様です。
金刀比羅宮は全国に勧請されており、その土地の金刀比羅大神を琴平大神と呼びます。ですから、宮尾神社の琴平大神は、恩方村の金刀比羅大神ということだと思います。ちなみに、現在の拝殿は明治中期の造営といわれています。
中村雨紅先生(なかむら うこう、1897年1月7日〈戸籍上は2月6日〉- 1972年5月8日)は、日本の大正期の詩人・童謡作家ですが、学校の先生だったことでも知られています。本名は、髙井宮吉。代表作は、故郷恩方の風景を歌った『夕焼小焼』です。1919年に作詞し、1923年に草川信が曲をつけたといわれています。1918年にシベリア出兵、1920年には日本が国際連盟の常任理事国になり、不平等条約に苦しんでいた日本が国際社会で主導権を持ち始めた時代です。
1909年に上恩方尋常小学校(現在の八王子市立恩方第二小学校)を卒業しています。1911年に恩方村報恩高等小学校を卒業しています。当時は恩方第一・第二の小学校で優秀な生徒が村の中間に位置する報恩高等小学校に進学しています(1922年には高等科は小学校併設に変更されました)。1916年に東京府青山師範学校(現:東京学芸大学)を卒業し、同年に日暮里の小学校の教師となりました。1917年、おばの家である中村家の養子となり中村姓を名乗ったそうです。
中村雨紅先生が師範学校を卒業直後は、教師として理想に燃えていましたしかし、日本の社会状況は刻一刻と変化し、日本の経済状況は悪化していきます。中村雨紅先生は教師として貧しい子供たちと接するうちに、童話や童謡などを通した情操教育の必要性を痛感し、児童文学に傾倒していきます。そんな中で出会ったのが「シャボン玉」「七つの子」「赤い靴」などの童謡をつくった野口雨情です。
1923年に代表作となる『夕焼小焼』を発表。
中村雨紅先生は日暮里の小学校への通勤時に恩方村から八王子駅までの約16kmを歩いて通っていました。
その帰り道に見た夕焼け空に、幼い日の想い出や村の風景などを重ね合わせて描いたのが『夕焼小焼』です。
1923年9月1日に発生した関東大震災で、作品の紙型から何から一切を焼失し作品として世に知れ渡るのは叶わぬと一度は諦めかけたそうです。
しかし、わずかに人手に渡っていて奇跡的に焼失を逃れた一部の楽譜を元に、この歌は人々の口から口へと歌い継がれて広まり、日本の代表的な童謡の一曲となったそうです。
そんな「夕焼け小焼け」という名曲を作詞した中村雨紅先生の生家である宮尾神社に、「夕焼け小焼けの歌碑」が1956年に建立されました。
1965年には望郷の念と母への想いを歌った『ふるさとと母と』を作詞、1970年には先生自身の願いにより、興慶寺に『ふるさとと母と』の歌碑を建立しています。
しかし、その翌年の1971年、先生は神奈川県立厚木病院(現:厚木市立病院)へ入院し、1972年5月6日に逝去されました。享年75歳でした。
ちなみに、「中村雨紅」は今でいうとペンネームです。養子先の姓「中村」と、敬愛する野口雨情にあやかり「雨」の字を頂くとともに「紅」は「染まる、似通う」という意味を込めて命名したそうです。
その他にも、この恩方探訪を通じて、上恩方周辺を散策した一行。恩方を知ることで、ますます恩方の生徒たちへの愛情と歴史ある恩方への興味を増した半日となりました。帰りがけ、恩方のシンボルでもある猿が一行を見送ってくれていました。
今後も色々な機会に、このホームページで恩方の情報発信をしていきたいと思います。