学運協の皆さんと教職員が恩方探訪に行ってきました!①
- 公開日
- 2025/08/27
- 更新日
- 2025/08/27
学運協・青少対・PTA
夏休み明け2日目。
恩方の子どもたちを知るためには恩方の地を知ろうと学校運営協議会の皆さんが毎年行ってくれている「恩方探訪」が今年も行われました。
例年、恩方に新しく赴任してきた先生を中心に行っていましたが、最近は教職員数も最盛期の半分くらいですから、新規に異動してくる先生もめっきり少なくなってきました。そこで、近年は新規異動者と共に希望される先生方を中心に夏休み期間を利用して行っていました。
今年は、恩方中学校の校歌を作詞された、中村雨紅先生縁のお寺である萬蔵山興慶寺です。知る人ぞ知るお寺で、あの夕焼け小焼けの歌の「鐘」のモデルがここなのではと言われている場所です。
実はここ以外にも2つモデルではと言われているお寺があります。西寺方町の小田野にある観栖寺と同じく西寺方町の宝生寺団地の入口にある宝生寺です。どこが歌のモデルなのかは中村雨紅先生に聞くしかないのが実際のところですが、歴史を紐解いてみると最も有力なのがここ興慶寺です。
興慶寺があるのは恩方中学校の奥にある狐塚という場所。臨済宗南禅寺派の寺院で、正式名称は「萬蔵山興慶寺」です。鎌倉幕府末期に永仁の徳政令というのが出されたのを覚えていますか。モンゴル帝国の元寇によって傷ついた鎌倉幕府が、命懸けで戦った御家人たちに満足な報奨を渡せず御家人たちに不満が募りました。御家人たちの生活は困窮し、借金をする者が増えたために、借金を解消すべく発出したのが永仁の徳政令です。
最近の日本も「減税やお給料をあげよう!」といった話題が出てますが、当時も同じだったんですね。そんな永仁5年(1297年)に創建した庵を、峻翁令山和尚が至徳元年(1384年)に八王子市山田町にある山田広園寺の末寺として起山したといわれています。
ちなみにこの時代はどんな時代かというと、1333年に鎌倉幕府は滅んでいますから、その後に1334年に後醍醐天皇による建武の新政。後醍醐天皇は幕府をつぶし、武士の時代を終えて天皇中心の世の中に戻そうとしたんですね。しかし、うまくはいきません。
1336年には足利尊氏が京都に入り、後醍醐天皇を京都から追い出してしまい、1338年には新しい天皇を立てて足利尊氏は室町幕府を作りました。しかし、後醍醐天皇を中心としたグループも吉野という所で尊氏率いる北朝に対抗して政治を続け、2人の天皇が同時に存在する南北朝時代に突入。この混乱した時代を収めたのが、三代将軍足利義満。慈照寺金閣を作った有名な将軍ですが、彼の就任が1368年です。歴史でも習いますが、慈照寺金閣を中心に北山文化が発展し、南禅寺を中心とした京都五山と呼ばれる臨済宗(禅宗)が発展した背景もあり、この頃に興慶寺が発展したこともうなずけます。
その後、このお寺が注目されるのが、甲斐の国(現在の山梨県)の戦国武将として力を発揮する武田信玄公の姫君、松姫さまです。織田信長たちによって滅亡された武田家の松姫は、甲斐の国を逃れて恩方にたどり着いたと言われています。そして、松姫さまが最初に身を寄せたのが、この興慶寺でした。その後、時機を見て松姫さまが身を寄せたのは金照庵でした。金照庵を作ったのも興慶寺の住職です。そして、何を隠そう金照庵は、江戸時代の天保3年(1832年)に住職のいない寺となり、一時は寺小屋にもなりましたが明治6年(1873年)に学校制度が実施された後、今の恩方第二小学校の前身といわれる案学舎になったのです。
先に述べた中村雨紅先生のご実家は夕焼け小焼けの丘にある宮尾神社で、宮司のお子さんとして誕生されたそうです。その後、1909年に中村雨紅先生は上恩方尋常小学校(恩方第二小学校の前身)に通われ卒業しております。
幼少期から少年期に恩方の地で育った、中村雨紅先生が興慶寺の鐘の音を聞かなかったはずはありません。あの夕焼け小焼けの名曲の一節「山のお寺の鐘がなる」が、中村雨紅先生の生家近くにある興慶寺に響く鐘の音だったのか。そんな100年以上前の出来事に思いを馳せながら興慶寺では座禅をさせていただきました。心穏やかな時間を過ごした一行は、下山しながら見える恩方の素晴らしい景色を前に心を洗われたような気がしました。