戦後80年の終戦記念日に向けて「八王子空襲と恩方の子どもたち」
- 公開日
- 2025/08/15
- 更新日
- 2025/08/15
今日の出来事
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今年は終戦記念日の80年目の節目になります。
中学生の皆さんには遠く昔の歴史の教科書に出てくる出来事のようですが、日本国民であればこの日を忘れてはならないと思います。太平洋戦争だけで310万人の人が亡くなり、うち民間人犠牲者だけでも80万人と言われています。
戦争が終わった80年前の8月15日。日本国民が何を考え何を後世に伝えたかったのか。平和を願った人々の思いを、我々が考えなければならない。そんな日が今日の8月15日なのだと思います。
皆さんは恩方中学校隣りの皎月院入口にある右手の忠魂碑(写真トップ)をご存知ですか?
かつて恩方からも日清・日露戦争から太平洋戦争までに多くの軍人が出征していき命を落とされた人々がいます。その人々の思いと名前を刻むために建てられたのが忠魂碑です。恩方の人々も戦争で亡くなった方々がいることを忘れないで欲しいと建てられたのが忠魂碑です。
今では平和な恩方中学校周辺ですが、今から80年前はどうだったのか少し見ていきたいと思います。
戦争末期となった昭和19年6月、米軍が日本からほど近いマリアナ諸島を攻略すると日本への爆撃機による本土空襲がはじまりました。そうした中で、8月17日には品川区原国民学校から空襲を逃れるために疎開児童が恩方へ来ることになりました。親元を離れ、不安の中にいる疎開児童たちを恩方の人々はいくつかの宿舎で快く受け入れることになりました。疎開児童数は120名ほどで、これ以降は恩方第一小学校で恩方の児童たちと共に授業を行うことになりました。
昭和20年3月10日には東京大空襲によって約10万人の人が亡くなっています。それはそれは酷い惨状でした。より都心部に住む人々は郊外や地方へ疎開先を求めることが増えたそうです。
この頃になると恩方の疎開児童や地元の児童たちは、勤労動員のために借り出されることも増えていきました。地域の人達による食べ物の工面も大変だったようです。そんな生きていくのに必死な中でも、米軍に対する警戒警報、空襲警報の発令が日に5・6回にも及んでいたそうです。寝る間もなかったわけです。
終戦もあと2週間ちょっとに迫った7月31日夜と8月1日昼。いつもの空襲警報と共に多数のビラ(写真参照)が上空から撒かれました。これは米軍による「中小都市の市街地焼夷作戦」の一環で、八王子空襲を事前予告するために撒かれたものです。当時の日本には空襲を予告されても、それを防ぐ力すらないことを国民に知らしめるための米軍による心理作戦でした。
米軍の予告どおり8月2月未明、八王子は米軍爆撃機B29による約2時間余りの大空襲を受け、八王子市街地の約80%が焼け野原となり、恩方を含む近隣の町村でも被害を受けたそうです。この空襲でなんと東京大空襲と同規模の合計1600トンの焼夷弾が投下、攻撃密度を考えたらとんでもない量の爆弾が狭い八王子に投下されたことがわかります。
米軍は、八王子に隣接する相模原等の軍需工場や軍関係施設がこの地域に点在し要塞化していることに懸念をもち、特に八王子市は労働力と住宅の供給地とみていました。さらに、中島飛行機地下工場(浅川町)の建設をはじめ周辺部では本土決戦に備えた軍関係施設の設営、軍隊の駐屯なども行われていたので念入りに爆撃をしたのだと思います。
予告ビラに従い、八王子一帯に1日午後8時20分に警戒警報が発令されました。しかし午後10時頃、神奈川県の川崎・鶴見方面爆撃の情報が入ったため八王子市の警戒は解かれたそうです。しかし、2日真夜中の午前0時45分頃、突然空襲が始まり、波状的攻撃は2時間近く繰り返されました。この空襲で市街地はすべて火の海となり、夜が明けてもまだ燃え続けているところもありました。周辺住民を巻き込んだ空襲により、死者445人(八王子市以外の旧浅川町なども含める)、負傷者 2,000人以上、被災人口死者 445人(八王子市以外の旧浅川町なども含める)、被災人口 70,000人、焼失家屋 14,000戸の被害が生じました。
恩方第一小学校の校内にも、3発の焼夷弾が落下しましたが、多くの先生方や地域の人達の力によって焼失は免れました。児童たちの学び舎は、多くの人々の努力で守られたのです。しかし、すぐ近くの心源院(写真参照)は寺内の本堂や山門などが全て焼け落ちてしまいました。
こんな惨劇が起こった数日後の8月5日には、現在の高尾駅(当時は浅川駅)を発車した長野行の中央本線の汽車が米軍戦闘機により湯の花トンネル付近で銃撃され、50人以上の乗客が亡くなる痛ましい事件が起きました。終戦まであと10日の出来事でした。
一般市民を巻き込んだ太平洋戦争。この戦争で、多くの罪のない命が奪われたことは間違いありません。普通に生活をしていた人々の命が、一瞬で消え去っていったのです。
平和な日本で暮らす私たちが、未来に残せることは何なのか。そんなことを考えるのが、8月15日終戦記念日なのだと私は思います。社会科の教員として、恩方中学校を預かる副校長として、私は二度と戦争の経験を生徒たちにはさせたくない。そんな思いを込めて、恩方の当時の様子を関係者の方々が残された文献を元に書き記してみました。 副校長 早川 功