学校日記

学校裏手の浄福寺城とは

公開日
2025/08/12
更新日
2025/08/10

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恩方中学校から東にある皎月院の後ろには大きな峰が広がっています。ここは、1384年(至徳元年)大石信重によって築城されたといわれる「浄福寺城」があったと言い伝えられています。浄福寺城は「大石源左衛門尉入道道俊と云もの当所に居城を構へし」(道俊は大石定久といわれる)との記述もあり、大石家とは切っても切れない由縁がありそうです。ちなみに恩方中学校に土地を寄付してくださった皎月院とは、大石道俊の戒名皎月院殿英岩道俊居士から寺名をとったものといわれています。


大石家とは、古くは木曽義仲を祖先にもつ家系で、源氏の末裔です。関東管領上杉家の四奉行ともいわれ、八王子をはじめこの辺り武蔵国一帯を支配していた一族で守護代と呼ばれました。しかし、後北条家の台頭により上杉家は関東から追放され、大石家は北条氏康の元で力をつけていきます。氏康の子であった氏照は大石家の家督を継ぐことで八王子をはじめとする武蔵国一帯の支配を確立するのです。簡単に言えば大石家の養子となり、氏照は戦わずして武蔵国一帯を手に入れたわけです。


ですから、氏照は大石家の作った浄福寺城も手に入れたわけです。後に氏照は八王子城を築城し、浄福寺城や小田野城、初沢城などの出城と共に権勢を誇ったわけです。言ってみれば現在の八王子の原型がここに出来たようなものです。


しかし、1590年(天正18年)の豊臣秀吉による八王子城攻め、落城とともに浄福寺城も落城、廃城となった。この時に豊臣秀吉の家臣団として八王子城攻めを行ったのは上杉景勝、前田利家、真田昌幸ら。一度は追い出した上杉家にやられたわけです。そしてその後は皆さんもご存知のように、北条家の本丸だった小田原城攻めを行った徳川家康に対して、その功績から豊臣秀吉は関東一帯を徳川家康に与え、武蔵国は大石→北条→徳川と支配者を変えていくことになるのです。その後、家康を恐れた秀吉が家康をけん制するために送られた甲州城(山梨県)の新たな支配者浅野長政(豊臣五奉行のひとり)を封じる目的で、かつての甲州の絶対的支配者であった武田家の最強家臣団千人同心を八王子に移り住まわせて、八王子千人同心として甲州からの守りとして八王子一帯を堅めさせたのです。


恩方中学校の周辺は歴史の大舞台だったわけです。ちなみに3枚目の写真はAIによる合成でこんなふうに城があったのではという雰囲気なので、実際の山城はこんなに立派なものではなかったと思われますからご注意を!