校歌
中村雨紅(なかむら うこう) 詩人 本名:高井宮吉(たかい みやきち) 明治三十年、恩方村(現在の上恩方町)にて宮尾神社神主の子として生まれる。 野口雨情を師とする。 東京府青山師範学校(現在の東京学芸大学)を卒業後、都内で教鞭をとる。 当時雨紅は都内日暮里の尋常小学校の教師をしており、恩方村から八王子駅までは16kmの距離を 行きも帰りも歩いていた。交通手段の未発達な当時ならではの長い道のりである。 この恩方村の実家(宮尾神社境内)への帰り道に見た、夕暮れの情景を詩にした 「夕焼小焼」(草川信作曲)は、今でも広く歌い継がれている。 昭和元年、神奈川県厚木実科高等女学校(現在の厚木東高等学校)教諭となり、 その後厚木に居を移し、昭和四十七年、七十五歳で亡くなる。 故郷の恩方には、雨紅をしのぶ人々によって、「夕焼小焼」の碑や鐘楼がいくつも建てられている。 |
作詞 中村雨紅 作曲 権藤圓立
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山は緑に水はすみ | 醍醐の流れ案下川 |
上恩方のよい里に | 陣場の峰を仰ぐ窓 |
真面目に学ぶわれらこそ | 希望に燃えるわれらこそ |
明日の文化をつくるもの | 明日の平和を築くもの |
ああ栄えある恩方第二小学校 | ああ栄えある恩方第二小学校 |
(一) 夕焼小焼で 日が暮れて |
校章
校章の由来 「恩方」の二文字を図案化したもので、中央に「恩」、左右に「方」を配しています。「方」の字が円に近かったのですが、時代がたつにつれて「ミミズク」や「カエル」などにも見えるようになってきたということです。 原作者は松井翠次郎氏で八王子織染学校(後の八王子工業高校)で図案の勉強をしていました。大正11年、氏が21才のとき、村章の募集に応じた2点のうち1点が入選しました。以来、村章は青年団の団旗や納税袋などにも印刷され、親しまれました。 昭和の初期になって、小学校でも使いたいという要請に応えて、狐塚の山本商店のご主人が徽商店に注文し、学帽などの記章となりました。 やがて、恩方が八王子市に統合されると、村章の役目を終え、校章として登場するに至りました。