修学旅行3日目 函館五稜郭と新選組
- 公開日
- 2025/05/16
- 更新日
- 2025/05/16
今日の出来事
この五稜郭がなぜこんなにも有名になったかというと、忘れもしないのは戊辰戦争末期の箱館戦争において、あの新選組の土方歳三が最後に散った場所だからとも言えます。
それではなぜ、恩方中学校が新選組最後の地となった函館を訪れたかというと、新選組と千人同心の関係に秘密があるのです。
千人同心は徳川家康が八王子の北条氏を滅亡させたのちに、秀吉は甲斐の地域を徳川を監視する地域と考えていたため、家康は江戸の西の警備を強化するために、かつて武田家の家臣であった千人同心を活用したのです。しかし、江戸時代に入り甲斐が天領に編入され、太平が続いて国境警備としての役割が薄れると、1652年からは交代で家康を祀る日光東照宮を警備する日光勤番を千人同心の主な仕事となりました。
このような千人同心は士農工商と身分制度が確立した江戸時代にあっても、家康は彼らを相当に優遇し、八王子の甲州街道と陣馬街道の分岐点に広大な敷地が与えられたのでした。それが現在の八王子市千人町周辺です。
ふだんは農民と同じように田んぼや畑を耕して暮していたのですが、何かあれば武器を持ってかけつける。八王子周辺は農民層にまで徳川との関係において密接な土地柄となっていったのでした。
身分は百姓として鍬を握りながらも、武田家臣の末裔という誇りを失わず、剣道のみならず学問にも精を出していました。豪農の敷地内には剣道の道場が置かれ、日ごろから鍛錬を怠らなかったのです。新選組の近藤勇や土方歳三は、この「八王子千人同心」の子孫であったのです。
江戸幕末にあって戊辰戦争で武田家からの徳川家に仕え、忠義を果たしてきた八王子千人同心。そのDNAの一つが新選組に引き継がれ、この函館で散ることになりました。そしてもう一方のDNAは幕府の対外政策によってロシアの進出による防衛強化の必要から蝦夷地の一部を直接支配するために苫小牧(勇払)に送られ開拓事業にあたったのです。
こうした2つの千人同心を学んだ修学旅行。八王子日本遺産「桑都物語」のアナザーストーリー。「千人同心が紡ぐ桑都物語」もいよいよフィナーレを迎えます。