学校日記

創立80周年記念企画④  東京オリンピックと変わりゆく八王子 ― 昭和39年4月~昭和44年3月 ―

公開日
2026/10/04
更新日
2026/09/15

周年行事事業

恩方中学校の沿革

  • 昭和41年4月1日
     第5代校長 富村盛祥 退職。第6代校長 鹿又義英 着任。

  • 昭和42年4月1日
     第6代校長 鹿又義英、八王子市立浅川中学校へ転任。第7代校長 山崎久男 着任。


世界が八王子にやってきた ― 高度経済成長と恩方中学校

 昭和39年(1964年)。恩方中学校が創立17年目を迎えたこの年、日本だけでなく、八王子の歴史にとっても大きな節目が訪れました。


 10月に開催された東京オリンピックです。


 八王子市は東京オリンピックの自転車競技会場となり、10月14日に競技が行われました。世界各国の選手たちが八王子を走り、市民が沿道から声援を送る――。戦争が終わってまだ19年。戦災から復興してきた八王子が世界の人々を迎える都市となったことは、当時の市民にとって大きな出来事だったことでしょう。


 さらに、この年の八王子にはもう一つ大きな変化がありました。8月1日に由木村が八王子市に編入され、市域は188.19平方キロメートル、人口は193,346人となりました。恩方村が八王子市へ編入されたのは昭和30年。それから9年を経て由木村との合併が実現し、現在につながる八王子市域の姿がほぼ整っていきます。


 そして同じ昭和39年5月9日、八王子市は「親切都市宣言」を行いました。市の公式記録では、世界で初めての「親切都市宣言」とされています。東京オリンピックで世界から訪れる人々を迎える時代に、「親切」をまちづくりの理念として掲げた八王子。その歴史もまた、現在の地域社会につながっています。


 翌昭和40年には、八王子市の人口が20万人を突破します。戦後の町村合併と高度経済成長によって、八王子はかつての織物のまちから、住宅、工業、教育などさまざまな機能をもつ都市へと急速に姿を変えていきました。昭和38年にはすでに工学院大学が中野町に移転・開校しており、後の「学園都市・八王子」へつながる動きも始まっていました。


 恩方中学校も、その変化の中にありました。


 昭和41年4月には、第5代校長富村盛祥が退職し、第6代校長鹿又義英が着任。翌昭和42年4月には鹿又校長が八王子市立浅川中学校へ転任し、第7代校長山崎久男へと学校経営が引き継がれていきました。


 昭和42年(1967年)は、八王子の交通や文化にとっても重要な年です。京王高尾線の北野―高尾山口間が開通し、中央自動車道の調布―八王子間も開通。 高尾山は「明治の森高尾国定公園」に指定されました。また、上野町には郷土資料館が開館しています。現在では当たり前になっている八王子と都心を結ぶ交通網や、地域の歴史・自然を大切にするまちづくりの基盤が、この頃に次々と形づくられていきました。


 日本全体に目を向ければ、テレビ、冷蔵庫、洗濯機が家庭に広まり、さらにカラーテレビ、クーラー、自動車が豊かさの象徴となっていった時代です。道路が造られ、住宅が増え、人々の生活圏も急速に広がっていきました。


 しかし、恩方には山や川、農地、そして地域の人々のつながりが残っていました。急速に都市化する「八王子」と、豊かな自然を残す「恩方」。 恩方中学校の生徒たちは、その二つが交わる時代を生きていたともいえます。


 昭和39年から昭和44年3月までの約5年間。東京オリンピックを契機として世界に開かれ、人口20万人を超え、道路や鉄道が整備されていった八王子。その発展の中で、恩方中学校も地域の学校として一日一日の教育を積み重ねていました。


 学校の歴史は、学校だけでつくられるものではありません。恩方の歴史であり、八王子の歴史であり、そこで暮らしてきた人々の歴史でもあります。


 80年を振り返ることは、恩方中学校を取り巻く「まち」がどのように変わり、その中で学校が何を受け継いできたのかを見つめ直すことでもあります。


地域とともに、80年。光り続ける恩方へ。