命の大切さを共に考える日1
- 公開日
- 2020/08/05
- 更新日
- 2020/08/05
学校の様子
7月27日(月)
八王子市では、一人一人の児童・生徒のかけがえのない命を必ず守るという考えのもと、市民皆で取り組む「命の大切さを共に考える日」を実施しています。今日はその始まりとして、放送による朝会で上田校長からの講話がありました。
宮上中学校では、校長講話に引き続き、特別の教科道徳や特別活動の時間に取組を実施していきます。2学期は全学年で「生命尊重」を主題とした道徳授業やSOSの出し方教育、3学年の「赤ちゃんふれあい事業」を実施していきます。
【校長講話の内容】
みなさん、それぞれにお名前がありますが、その由来を聞いてみたりして知っていますか。私の名前は、上田太です。上田は苗字ですから、太が名前です。父親は私が子供のころ「太っていうのはな、前に太っていう名前のすごい野球選手がいたので、その名前をもらったんだ。」と言っていました。でも後から聞いてみると、もう一つの理由があったんです。私には今兄が一人いますが、実はその上にもう一人男の子がいたんです。といっても、私は会ったことがありません。その子が心臓の病気で生まれて半年ほどで亡くなってしまったからです。
それで両親は、私の名前を付けるときに、とにかく何でもいい、ただただたくましく生きていてくれさえすればいい、という気持ちで「太」という一文字を付けたのだと聞きました。この名前、小さいときには痩せていたので同級生から「痩せているのにどうして太なの?」と言われたり、大きくなってからは「名前の通り太いね。」と言われたりと、どちらも嫌だなあと思ったりしていました。でもこのごろは、なんたって書くのが楽でいいやと思うようになりました。
さて、その兄が亡くなったころの話を聞いた後、私は言いました。「じゃあ、お兄ちゃんがもし生きていたら三兄弟だったんだね。」と。そしたら父親がぽつりと言ったんです。「もしあの子が生きていたら、たぶんお前はいなかった。」
「えっ、そうなの?・・・・・」
私はそのあと、ものすごく複雑な思いになりました。
時は流れて、先日実家に帰った時に、家の仏壇に亡くなる少し前の小さかった兄の写真が置かれていることに気づきました。何かを思い、母が置いたのだと思いますが、赤ちゃんの頃の私の写真と比べしみじみ見てみると、とても私によく似ているのです。すぐ上の兄より間違いなく私に似ている。
この子が亡くならなかったら、今ごろどこでどうしているのだろう。何やってるのかな、きっと幸せに暮らしているのかな。でも、その同じ世界には、たぶん私はいない。今ここで、皆さんに出会ってお話をしていることもないだろう。
だから私は勝手に、自分はその子の生まれ変わりだと考えています。あの写真の赤ちゃんが生きられなかった、その先の人生の分まで、2つの命を私は生きなければならない。そう思っています。勝手にそう思っています。でもそれが一番、私の生きる原動力になっているようです。
命って、偶然なんですね。
自分の命も、他の人の命も、そうやって偶然生まれて、今ここにいる。
今一緒にここにいるのも、偶然の出会いです。少しの時がたてば、皆それぞれの道へ分かれていく。その今の偶然というものを、皆さんはどう考えますか?生まれた偶然、出会った偶然。偶然の積み重ねを、奇跡といいます。
自分は何で生まれてきたんだろう?そんなふうに今皆さんの年頃は考える人が多いと思います。この後、2学期にかけて、「命」について皆さんにも考えてもらう取組を行います。ぜひこれから一層、自分の命やほかの人の命について、一緒に考えていきましょう。
さあ、今皆さんの周りに座っている、ほかの人は、どんな奇跡で今ここにいるのか、ちょっと思い浮かべてみてください。