“桑港”ってどこ?  古い本その2『平和の象徴・国連』

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“桑都”は八王子のこと、桑港はアメリカのサンフランシスコのことです。
表紙に「附 桑港講和会議」とあり、紙箱に入った図鑑のような立派な本です。先の大戦終結のため日本と連合国との会議が行われ、これにより日本は主権を回復し、国際社会に返り咲きました。記念に各校に配られた本かもしれません。

目次は平和の象徴・ハトが舞うイラストで、国連の使命、機構、活動などが並んでいます。

続いて民族衣装や産業、観光名所や史跡など、当時の加盟60か国の様子が白黒写真で紹介されています。例えばオーストラリアはたくさんの羊、シドニー港のヨットレース、そしてカンガルーなどが出ています。アメリカはニューヨークの夜景、ヘリコプターでの農薬散布、そして核実験のきのこ雲が…。

本校でもユニセフ募金を行いましたが、UNICEF(国連国際児童緊急基金)は第1回国連総会で作られたそうです。

【イラスト左】表紙は国連のシンボルカラーのライトブルーで、旧字体の文字と国連ビルの図は金箔押しです。
【イラスト右】説明文は「オーストラリヤの象徴をなす人なつっこい野生カンガール」

『平和の象徴・国連』讀売新聞社出版局 昭和26年8月5日発行 1500円 本の扉と奥付は新字体でした。

“たうなす”って何?  古い本その1『藥用植物圖説』

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よそでは処分されてしまうような様々な古い物が、本校にはあります。大切に保管しているのか、単にそのまま置いてあるのかは微妙ですが…歴史的価値があるかもしれません。古〜い本を紹介していきます。

「たうなす」は「とうなす(唐茄子)」と読み、カボチャのことです。洗って乾かした種子の皮をむき、すりつぶして「南瓜仁(ナングワジン)」という虫下しの生薬にすると書いてありました。七十数年前の本は、漢字もかなも古い書き方なので読むのに一苦労です。ゴボウは“ごばう”、ショウガは“しやうが”です。

本は著作権上、写真をネットにアップできませんので、“東京都南多摩郡恩方村立恩方第二小学校之印”という当時の蔵書印とリライトした挿絵を載せました。

現代の価格にすると3000〜4000円もする本で、79グループ121種類の植物とその薬効、巻末に複数の薬草を使う“皇漢藥處方”が43種類出ています。当時の基礎知識として小学校で生薬作りをしたのかどうか…謎ですね。

『藥用植物圖説』波多腰節 著、農業書院 発行、昭和23年9月18日3版、200円。

松姫ものがたり 番外編 【金照庵】

恩二小のあたりは、かつて武蔵・相模・甲斐の三国を結ぶ重要な街道筋でした。
その関所跡を示す関場の石碑群には、『金昇庵』と彫られたものがあり、現在の敷地内にあったことが分かります。「照」の字が違いますね。

本や紹介記事を読んで、本校を訪ねて来られる方もおられますが、残念ながら金照庵の遺跡や解説板などはありません。

なお、現在の金龍山 信松院(台町3-18-28)にはカフェ『金照庵』があり、メニューに「松姫さまぜんざい」があるそうですよ。

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松姫ものがたり その12【最終回】

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むかし信松院(しんしょういん)には「松姫さまお手植(
てう)えの松」がありました。
つらいとき、悲しいときにお願いすると力(ちから)を与えてくれました。
後に八王子に大きな火事があったとき、この松が大きく手を広げる格好(かっこう)で、火をくい止めたといわれています。

松姫さまは五十六才になった元和(げんな)二年四月十六日、座禅(ざぜん)を組まれたまま、西方浄土(さいほうじょうど)を向いてお亡くなりになりました。
西方浄土には お父さまの信玄公やお母さま、仲良しだった五郎お兄さまたちなどたくさんの御霊(みたま)がやすまっています。

松姫さまが亡くなられたとき、信松院から五色(ごしき)の雲がわきたちゆるやかにゆるやかに西に流れて行ったということです。

                        おしまい


※元和二年は西暦1616年です。
ふりがななど表記の仕方は、視聴覚室に掲示されている児童作品を元にしています。ご了承ください。ご愛読ありがとうございました。

松姫ものがたり その11

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ある日、信松院に里(さと)の娘(むすめ)が訪(たず)ねてきました。
「私は、はた織りの娘ですが、下手(へた)なのでどうか上手(じょうず)に織れる方法を教えてください」
松姫さまは、
「私も、もとは下手だったのですよ。でもこの手まりをつるしてはたを織っていたら少しずつ上手になりました。私のはた織りのお守りなのです。あなたにあげましょう」
といって娘に手まりをあげました。
娘は手まりをつるしてはたを織りました。

やがて里の家々から
「とんとんからり とんからり」
とはたを織る音が毎日聞こえてくるようになりました。
そしてこんな唄(うた)がはやったそうです。

「♪はたを織るなら とんからり 
  信松院の姫さまに 手まりをいただき とんからり
  ゆらゆらゆらり ゆらゆらり
  とんとんからり とんからり …♪」

松姫ものがたり その10

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 ある夏の夜、松姫さまの夢まくらに立った観音さまは
 「これよりひとり立ちして庵(いおり)を開き、朝夕のおつとめをする
  がよい」
とお告(つ)げになりました。
 しばらくして、八王子の南 御所水(ごしょみず)の里に信松院という、すがすがしい草の庵がたちました。

 そのころ、徳川家康(とくがわいえやす)が関東一帯をおさめることになりました。
 「武田家の家来たちは、たいへんすぐれているから大事な役割を与えよ
  う。」
と八王子千人同心という組織(そしき)をつくらせました。

 千人同心は、将軍のお供をして「大坂の陣」や「関ヶ原の戦」に行ったり、八王子十五宿(しゅく)や甲州道中(こうしゅうどうちゅう)のとりしまりをしたりしながら、信松尼さまをかげからお守りし、後に日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)や江戸城の火の番など警備(けいび)にあたりました。

創立120周年記念 全校劇『てんぐのけんか』

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今、恩二小は学芸会に向けてみんな練習に励んでいます。

約30年前の学習発表会では、中村雨紅氏原作の『天狗の喧嘩』を元に、全校で劇をしました。職員図書のコーナーに当時の台本が残されています。
校歌と『夕焼け小焼け』のほかに、『こおろぎ』『こんこん小兎』『星の子』『ねんねのお里』という雨紅氏の曲を劇中で歌ったそうです。

【あらすじ】
刈寄山の黒天狗と、陣馬山の赤天狗がお酒を飲んでけんかして「打ち出の小槌」を置き忘れてしまう。お祭りで見付けた村人たちが、小槌を振って金銀を出したり願いをかなえたりして喜ぶ。

校歌の作曲家・権藤圓立(ごんどうえんりゅう)氏*

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本校の校歌は、卒業生の中村雨紅氏が作詞したということはよく知られています。一方の作曲家・権藤圓立氏はどのような方でしょうか。

圓立氏は1891(明治24)年、九州は宮崎県・延岡の光勝寺に生まれ、現在の東京藝術大学で声楽を学びました。教員生活の後、学友の藤井清水(ふじいきよみ)氏の紹介で茨城県出身の詩人・野口雨情(のぐちうじょう)氏と知り合い、三人で新しい音楽運動を全国的に展開しました。三人とも吉祥寺で仲良く暮らしていたそうです。

圓立氏は良い声でレコードを何枚も作りました。
奥様は ♪ささの葉さらさら のきばにゆれる〜♪ 『たなばたさま』の作詞をした権藤はなよ氏です。雨情氏は、雨紅氏やはなよ氏の師匠です。
圓立氏は本校のほかにも数々の校歌を手がけたり、お寺の和讃(わさん)という朗唱する讃歌を書いたりしました。1968(昭和43)年、東京で亡くなりました。

*ふりがなを「えんりう」、圓を「円」と書かれることもあります。

松姫ものがたり その9

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しばらくしてさらに山をくだり「心源院(しんげんいん)」というお寺に入りました。
お坊さまは、卜山和尚(ぼくさん*おしょう)という立派な方でした。
【*原文ママ ぼくざんと読むことが多い】
松姫さまは和尚さまに
「尼(あま)になって お父様をはじめ 亡くなられた方々、敵も味方も… 両方のたましいを鎮(しず)めてあげたいと存じます。どうぞ、お弟子(でし)にしてください。」
と頼みました。
卜山和尚はだまったままでした。

何度もお願いする松姫さまの覚悟(かくご)が本物だと見定めると、やっと
「修業は厳(きび)しいぞよ」
といいながら許してくださいました。
男の僧でも逃げ出すような厳しい修行に、松姫さまはひたすら励(はげ)みました。

そして五年が過ぎたとき、卜山和尚は
「これからは信松尼(しんしょうに)と名乗りなさい」
とお弟子の一人に加えてくれました。

松姫ものがたり その8

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次の日、やっと上恩方(かみおんがた)にある金照庵(きんしょうあん)という山寺にたどりつきました。
「観音さま、ありがとうございました」
松姫さまは心から観音さまにお礼を云いました。
金照庵ではしばらくのあいだ、畑をたがやしたりしてつつましく暮らしていました。

そしてそれは六月二日の夜のことでした。
ドドド ゴーッ ゴーゴー
突然、嵐(あらし)が起こり、暗闇(くらやみ)の中に若武者(わかむしゃ)が見えたのです。
顔が青白く無念(むねん)のようすで、だんだん遠ざかって行きました。
「あっ、信忠さま」

あとになって、この夜は京都の本能寺(ほんのうじ)で明智光秀(あけちみつひで)が織田信長公に謀反(むほん)をおこした夜と分かりました。
この時、信忠さまも討(う)ち死にしました。
「信忠さまがお別れに来て下さった」
松姫さまは涙がかれるほど泣きました。

松姫ものがたり その7

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松姫さまの一行は上野原(うえのはら)から裏山(うらやま)づたいに八王子に向かっていました。
着物もはきものも、いばらに引き裂(さ)かれ、岩だらけの道を歩いたので ぼろぼろになってしまいました。

ヒューッ ゴーゴー…
案下峠(あんげとうげ)を越(こ)える頃には吹雪(ふぶき)
になりました。
「観音(かんのん)さま、どうぞお助け下さい」
松姫さまは祈(いの)りました。
すると、お母さまによく似た観音さまが現(あらわ)れました。

大きな岩に向かって歩いて行くと、ふしぎ!ふしぎ!そこにぽっかりと穴があいたのです。
みんなその穴に入りこみました。
中は ほっかほっかとあたたかく極楽(ごくらく)のようでした。
そこで安心して眠ることができました。

味わい深いレトロな郵便局

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陣馬街道沿いの夕刊紙連載で、上恩方郵便局も紹介されました。記事によると、『1938(昭和13)年の開局当時の局舎が維持されて今に至る。木造2階建ての洋風建築』で、本校旧校舎の部材も使って建築されているそうです。

 3年生の社会科見学で伺った際、お仕事の様子のほかに、飾ってある提灯やホーロー引きの古い表示など局内のあれこれを教えていただきました。
 看板も右から左に書かれています。そしてその裏には開所当時の名称『上恩方郵便取扱所』と彫られていました。【写真下;右から便・取】
一枚の板を大切にして、文字通り歴史が刻まれているのですね。

松姫ものがたり その6

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そのあと武田家を継いだ勝頼(かつより)お兄さまは、
長篠(ながしの)の戦いで織田軍の鉄砲隊(てっぽうたい)に負けていました。
それからは織田軍が武田の領内(りょうない)にどんどん攻(せ)め込(こ)んで来ました。

松姫さまの館(やかた)も危(あぶ)なくなって来ました。
「早く逃げろ!追(お)っ手が来るぞぉー。」
松姫さまは兄の幼い姫たちと、少しの家来(けらい)だけで逃げる事にしました。

冷たい北風の中、東へ東へとのがれて行き、大月を過ぎたあと、二人のお兄さまも戦いで亡(な)くなられたという知らせがありました。
泣きじゃくる姫たちに、
「泣いてはなりません。武田の姫ではありませんか。」
松姫さまはこみあげる涙をこらえながらいいました。

昔の学校

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朝日新聞夕刊のコラム『マダニャイ とことこ散歩旅』で陣馬街道を取り上げていて、8月25日・26日の2回にわたって本校が紹介されました。記事を読んで早速見学に来られた方もいました。

記事の中で中村雨紅氏が少し怖い思い出を語っていますが、出典の記念誌は『あゆみ 創立九十周年記念』(S39・1963年)のようです。
【写真上】表紙のイラストは明治31年入学の方の記憶を元に当時の教員が描いたもので、隣にお墓があります。

【写真下】これは敷地の拡張や校舎の増築を終えた昭和期です。現在の校庭に旧校舎が建っている様子や、裏山の祠がよく分かります。小プール(今はビオトープ)ができた1963年以降の撮影でしょう。(傷んだ部分をレタッチしました。)

野矢トキ氏と もうひとつの校歌

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♪帝座の下(もと)なる多摩ノ郡 上恩方のよき村に …
 先の大戦前、尋常小学校や国民学校と呼ばれていた当時の校歌です。作詞はやはり中村雨紅氏でした。ここでは作曲した野矢トキ氏を紹介します。
 
 野矢氏は群馬県渋川出身、東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)でオルガンを専攻、1919(大正8)年から東京府立第四高等女学校(現・都立南多摩中等教育学校)の音楽教師を勤めました。
 本校の校歌を作曲したいきさつは不明ですが、雨紅氏と交流があったのか、本校卒業生など関係者が第四高女にいて、依頼したのかも知れません。
 野矢氏は1945(昭和20)年8月2日の八王子空襲で亡くなりました。第四高女の教え子たちが大楽寺町の法泉寺に記念碑を立てたのは1956(昭和31)年のことです。

※南多摩同窓会あかね会 会報『みなみたま』掲載記事(WEB上)、揺籃社『ガイドブック 八王子の戦跡』を参考にさせていただきました。
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松姫ものがたり その5

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ところが喜びの日も長く続きませんでした。
松姫さまが十一才になった秋、
「観音さま、どうかお母さまをお守りください」
祈りもむなしく お母さまが病気で亡くなりました。

さらに次の年、三方ヶ原(みかたがはら)の合戦(かっせん)で
織田軍(おだぐん)が敵の徳川方(とくがわがた)に味方をしたのです。
「けしからん!そんな織田家に姫はやらんぞ!」
信玄公は怒(おこ)って婚約(こんやく)を取り消してしまいました。

松姫さまの悲しい運命はなおも続きます。
信玄公が戦(いくさ)の途中、病気で急に亡くなったのです。

松姫ものがたり その4

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松姫さま 七才になった時のことです。
信玄公は 尾張(おわり)のお殿さま、
織田信長(おだのぶなが)公の後継ぎ(あとつぎ)、
信忠(のぶただ)さまと
松姫さまの結婚の約束を交(か)わしました。

その頃は、国と国のかけひきで、
若君(わかぎみ)やお姫様がまだ幼いうちに
結婚の約束をしてお互いに攻めて来られないようにしたのです。

松姫さまは信忠さまと一度もあったことはありませんでした。
織田家からは、たくさんのお祝いの品が届けられました。
中でも舞扇(まいおうぎ)はとくにうれしくて胸に抱きしめ、
結婚の日を夢見ておりました。

松姫ものがたり その3

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松姫さまは、すくすくと育ちました…。
五才になったとき信玄公は、恵林寺(えりんじ)の快川和尚(かいせんおしょう)という偉(えら)いお坊さまに
「姫に正しい“人の道”を教えてください。」
とお願いしました。
ある日、五郎お兄さまのお城をたずねたときのことです。
お城は桜が満開(まんかい)で、村の人たちもお花見を楽しんでいました。
「どろぼー」「まてー」
小さな女の子でした。手には松姫の手まりがありました。
みんなが女の子をせめると
【松姫】「手まりはさっき私がこの子にあげたのよ。」
松姫さまのあたたかい思いやりがわかった女の子は
「ごめんなさい、ごめんなさい。」
涙を流しながらあやまりました。

郷土の先輩・中村雨紅氏

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雨紅氏のお墓
神社関係のお墓は「おくつき(奥津城・奥都城)」と言います。
お墓には墓石の隣に、童謡・夕焼け小焼けの情景を浮き彫りにしたものがあります。そこには黒い石に自筆の詩と解説も彫られています。

 我によき友のあり
  そはみな
  うたのおかげなるも
  歌はありかたき◇
          雨紅
◇の所の文字は読み方がわかりません…。
『世界的に有名な夕焼け小焼けをはじめ雨紅作詩の童謡は彼の生まれ育ったこの地の山や川昔ながらの暮らしの中で培われた心の表われです
雨紅はふる里の自然の恵みが人々の心に深い安らぎと生きる力をいつまでも与えてくれることを願っているでしょう』と綴られています。

松姫ものがたり その2

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それは今からおよそ450年前のことです。
甲斐(かい)の大しょう武田信玄公(たけだしんげんこう)が
越後(えちご)の上杉謙信(うえすぎけんしん)と
川中島(かわなかじま)というところで戦っていた時のことです。
パカッ パカッ パカッ
丘のふもとから砂けむりをあげて 早馬(はやうま)が駆(か)け上がってきました。
家来 「おやかたさま、おめでとうございます。姫さまがお生まれです」
信玄 「おおっ、姫が生まれたとな 姫の名は松姫(まつひめ)としようぞ 松は栄えるめでたい木じゃ」
と白い紙に「松姫」と書いて 奥方さまのところに届けさせました。
それを見た赤ちゃんは
「ころ ころ ころろ」と笑いました。
やがて戦(いくさ)を終えて帰ってきた信玄公は
「おお、おお、可愛い姫じゃ」
宝物のように大事に抱きかかえました。

【原文ママ、( )はふりがな】

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