校歌の作曲家・権藤圓立(ごんどうえんりゅう)氏*

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本校の校歌は、卒業生の中村雨紅氏が作詞したということはよく知られています。一方の作曲家・権藤圓立氏はどのような方でしょうか。

圓立氏は1891(明治24)年、九州は宮崎県・延岡の光勝寺に生まれ、現在の東京藝術大学で声楽を学びました。教員生活の後、学友の藤井清水(ふじいきよみ)氏の紹介で茨城県出身の詩人・野口雨情(のぐちうじょう)氏と知り合い、三人で新しい音楽運動を全国的に展開しました。三人とも吉祥寺で仲良く暮らしていたそうです。

圓立氏は良い声でレコードを何枚も作りました。
奥様は ♪ささの葉さらさら のきばにゆれる〜♪ 『たなばたさま』の作詞をした権藤はなよ氏です。雨情氏は、雨紅氏やはなよ氏の師匠です。
圓立氏は本校のほかにも数々の校歌を手がけたり、お寺の和讃(わさん)という朗唱する讃歌を書いたりしました。1968(昭和43)年、東京で亡くなりました。

*ふりがなを「えんりう」、圓を「円」と書かれることもあります。

松姫ものがたり その9

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しばらくしてさらに山をくだり「心源院(しんげんいん)」というお寺に入りました。
お坊さまは、卜山和尚(ぼくさん*おしょう)という立派な方でした。
【*原文ママ ぼくざんと読むことが多い】
松姫さまは和尚さまに
「尼(あま)になって お父様をはじめ 亡くなられた方々、敵も味方も… 両方のたましいを鎮(しず)めてあげたいと存じます。どうぞ、お弟子(でし)にしてください。」
と頼みました。
卜山和尚はだまったままでした。

何度もお願いする松姫さまの覚悟(かくご)が本物だと見定めると、やっと
「修業は厳(きび)しいぞよ」
といいながら許してくださいました。
男の僧でも逃げ出すような厳しい修行に、松姫さまはひたすら励(はげ)みました。

そして五年が過ぎたとき、卜山和尚は
「これからは信松尼(しんしょうに)と名乗りなさい」
とお弟子の一人に加えてくれました。

松姫ものがたり その8

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次の日、やっと上恩方(かみおんがた)にある金照庵(きんしょうあん)という山寺にたどりつきました。
「観音さま、ありがとうございました」
松姫さまは心から観音さまにお礼を云いました。
金照庵ではしばらくのあいだ、畑をたがやしたりしてつつましく暮らしていました。

そしてそれは六月二日の夜のことでした。
ドドド ゴーッ ゴーゴー
突然、嵐(あらし)が起こり、暗闇(くらやみ)の中に若武者(わかむしゃ)が見えたのです。
顔が青白く無念(むねん)のようすで、だんだん遠ざかって行きました。
「あっ、信忠さま」

あとになって、この夜は京都の本能寺(ほんのうじ)で明智光秀(あけちみつひで)が織田信長公に謀反(むほん)をおこした夜と分かりました。
この時、信忠さまも討(う)ち死にしました。
「信忠さまがお別れに来て下さった」
松姫さまは涙がかれるほど泣きました。

松姫ものがたり その7

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松姫さまの一行は上野原(うえのはら)から裏山(うらやま)づたいに八王子に向かっていました。
着物もはきものも、いばらに引き裂(さ)かれ、岩だらけの道を歩いたので ぼろぼろになってしまいました。

ヒューッ ゴーゴー…
案下峠(あんげとうげ)を越(こ)える頃には吹雪(ふぶき)
になりました。
「観音(かんのん)さま、どうぞお助け下さい」
松姫さまは祈(いの)りました。
すると、お母さまによく似た観音さまが現(あらわ)れました。

大きな岩に向かって歩いて行くと、ふしぎ!ふしぎ!そこにぽっかりと穴があいたのです。
みんなその穴に入りこみました。
中は ほっかほっかとあたたかく極楽(ごくらく)のようでした。
そこで安心して眠ることができました。

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