※ 写真は、修了式講話で使用した新聞紙面です ( 24日付・讀賣新聞 )
始めに、先日の卒業式で心のこもった式歌を歌い、3年生の旅立ちに花を添えてくれた皆さんにお礼を言います。 どうもありがとうございました。
私にとって 「 3年生 」 という別所中の宝を失ったことは大きな悲しみでしたが、あの式歌を聴き、皆さんが新たな別所中の宝になってくれそうな予感がして嬉しくなりました。 今、私の心の中は、悲しみよりもその喜びと期待のほうが多く占めています。
★ ★ ★ ★ ★
さて、今日は平成22年度の修了式ですが、私のお話を、1・2年生合同で行う授業に代えさせてください。 ですから、いつもより少しだけ時間がかかりますので、その場に腰を下ろしてください。
校長講話・ここをクリック
実は、皆さんに一つ残念なお知らせをしなければなりません。
本校・美術科の田中先生の弟さんが、東北・関東大震災で津波の被害に遭いお亡くなりになっていたことが、連休明けの火曜日に判明したのです。
田中先生の弟さんは、被災地の中でも特に甚大な津波の被害を受けた地域の一つ、宮城県の南三陸町という所で、介護のお仕事をされていました。
まだ24歳という若さでした。
海と道路一本隔てた場所にある介護施設にお勤めだったのだそうですが、たぶん津波警報が出たときに我が身一つで避難していれば、その若さゆえに助かったのではないかという気がします。 きっと施設のお年寄りを一人でも多く助けようとしているうちに、津波にのみ込まれてしまったのに違いありません。
今から、一枚のプリントを配ります。
これは、昨日の新聞紙のある一面を縮小コピーしたものです。
見てすぐにわかったかと思います。 田中先生の弟さんは出ていませんが、ここに掲載されているのは 「 災害によって亡くなられた方々 」 です。
正確な言い方をするならば、亡くなられた方のうち、新聞発行日の前日に身元が確認できた方です。 ですから、今後も身元確認を進めていく中で、掲載される方はさらに増え続けていくことでしょう。
その総数は、昨日の時点で9811人、最終的に2万人を越えるのではないかとも言われています。 私は、その数字に表れている今回の災害の猛威と被害の甚大さに、改めて慄然とします。
しかし、その一方で私は、「 1万人 」 とか 「 2万人 」 とかいった大きなくくり方に慣れてしまうことも、危惧しています。
まず私たちが目を向けるべきは、その一人ひとりに、家族や友達など人と人とのさまざまなつながりがあったということ、そして、あの災害さえなければ、これからも続いていたであろう一人ひとりの人生があったということです。
今、私がこの新聞記事を皆さんに配ったのも、そのことに目を向けてもらいたかったからなのです。
私の数え間違いでなければ、この紙面には775名の方が載っています。
どうか、見てください。 その一人ひとりに名前があります。 生活していた場所があります。 あの日あの時まで生きてきた、人生の長さも記されています。
100歳を越えている方もいらっしゃいます。
明治生まれのこの方たちには、いったい何人の息子・娘がいて、何人の孫がいて、何人の曾孫 ( ひまご ) がいたのかと考えます。
0歳の赤ちゃんがいます。
この子は、この世に生のあったわずかな時間に、お父さんやお母さんからどれだけの愛情を注がれ、逆にその汚れのない笑顔や寝顔で、どれだけお父さんやお母さんにささやかな幸せを与えたかを思います。
12歳・13歳・14歳・15歳 … 。
まさに皆さんと同じ、中学生時代を生きていた人たちの名前があります。
皆さんがそうであるように、その一人ひとりに家族があり、友達があり、毎日毎日繰り返される学校生活があり、悩みがあり、不安があり、将来の夢があり、無限の可能性があったことを思うのです。
そうしたことに思いを至らせたとき、同時に私は、残された人たちの、生き残ったがゆえの悲しみと、大切な人を救ってあげられなかった 「 自責の念 」 をも、思わずにいられません。
TVニュースのインタビューでは、お孫さんを亡くしたお婆さんが 「 自分のような年寄りが生き残ってしまったのに … 」 と、涙ながらに語ってしました。
やっとつながった携帯電話で 「 母ちゃんは、駄目だった。 おれが死なせてしまった 」 と、誰かに報告している男性がいました。 津波に流されていく両親に手を伸ばしたが、母親の腕をつかみ損ねて、父親しか救うことができなかったのだそうです。
地震発生後9日目にして、倒壊した自宅から救出された80歳のお婆さんと、
16歳になる高校生の孫がいました。 お婆さんの息子であり高校生の父親である男性は、しかし、「 私たちだけが、こんな幸福を味わうのは申し訳ない 」 と、唇をかみしめました。
私に弟さんが亡くなったことを報告されたとき、田中先生は 「 家族の行方さえわからない人も大勢いる中で、せめて遺体が確認できただけでも有り難いと思わなければならない 」 と、涙をこらえてお話しされていました。
かけがえのないたくさんの命が奪われた事実と、その命とつながっていたたくさんの人々に、大きな悲しみと心の傷が残されたという事実 … 。
それらの事実の一つ一つに向き合ったとき、この1枚の新聞紙、この1枚のプリントが、なんと重いことかと感じられませんか?
その場に静かに立ち、姿勢を正してください。
ここで、全校生徒・教職員で黙祷を捧げたいと思います。
この黙祷は、単に多くの人がお亡くなりになったからという理由で捧げる黙祷ではありません。 修了式という 「 儀式的行事 」 の場を使って、儀礼的に捧げる黙祷でもありません。
私は、このお話をするのにあたり、あえてプリントも用意して 「 授業 」 という形をとらせてもらいました。 それは、皆さんに、お亡くなりになった方々の命の重さと、残された方々の悲しみの深さを実感してもらい、そのうえで 「 心からの黙祷 」 を捧げてほしかったからなのです。
私が号令をかけたら、目を閉じ、頭を垂れて、静かに田中先生の弟さんの、そして、今回の災害で命を落とされた方たちのご冥福を祈ってください。
★ ★ ★ ★ ★
目を開けて前を見上げた私たちが、このあとやらなければならないことは、わが国がこの深い悲しみから一刻も早く立ち直るために、自分にできることを考え、それがどんなにささやかなことであっても具体的な行動に移すことです。
大自然の猛威の前に、完膚なきまでにたたきのめされたこの国が復興を遂げるには、長い年月を必要とするかもしれません。 しかし、いつの時代も、新しい歴史を切り開いてきたのは、皆さんのような若い世代でした。
話が長くなってしまいましたが、私から皆さんへの最後のメッセージです。
私は、皆さん一人ひとりが、この国の新たな歴史を切り開くパイオニアになってくれることを信じています。 ただ、そうなるためには、人の心の痛みがわかる人間、「 自分 」 のことだけでなく、それと同じぐらい 「 全体 」 のことを考えられる人間にならなければなりません。
どうか、そういう人間になるための訓練を、残り1年・2年の中学校生活でしっかり積む覚悟を持って、新しい学年に進級してください。
私は、皆さんに期待しています。
最後まで聞いてくれて、ありがとうございました。
校長 武田幸雄
※ 田中先生は、現在ご実家のある宮城県に帰られています。
PTAの規約に則り、会長さん以外に特に訃報は流しておりませんので、この記事をもって保護者の皆様への報告とさせていただきます。