横一小に残されている歴史に関するものを発信します。
校歌
平井康三郎先生の直筆の楽譜、勝 承夫先生の直筆の原稿 |
創立百周年記念曲『横一小音頭』
創立百周年記念曲『横一小音頭』
『創立百周年記念誌』より |
変わりゆく校舎〔昭和45年以降〕(校舎配置図の変化)
『70周年以降の横一小』 昭和42年11月15日、盛大に70周年記念事業が挙行されました。それ以降、時代は変わり山村から住宅地へと開発が進み、人口も比例して増加していきました。当然、学校の教室不足が見込まれ、教室が増やせたとしても校庭は狭くなることが明白であり、 「このままの敷地では対応し切れなくなり、時が経つにつれて土地の確保も困難になる。そのために今から準備を始める必要がある。」 という認識も基に、70周年事業が終了するのとほぼ同時に新たな校地を求める声が必然的に出始めてきました。 これらの声を受けて、『校地対策委員会』を組織し行動に移りましたが、市の都合で校地を確保するのではなく、地域住民からの要望による校地の確保が目的のため、ほとんどの行動を『校地対策委員会』が自主的に動かなければならない事情がありました。特に、校地確保のために大勢の地主さんとの折衝や打ち合わせを、百回を超えるほどの行動した結果、地主さんの理解も得られて現在の校地が確保されました。その後は、『校舎建設委員会』という組織に切り替え、竣工まで携わってきたという経緯があります。 これは総じて地域の皆さんの横山第一小学校に対する愛情と成長過程にある子供達の教育環境を何としても良くしなければならないという強い意志によって達成されたものとして後世に言い伝えなければならないことだと思います。 『創立百周年記念誌』より |
横一小の学区の変遷
最初の横一小学区横一小の学区は、旧横山村の南部を中心に成っていました。明治30年の創立から昭和20年代中頃までは、だいたい1学年1クラスでした。 当時、この地域も自然のままで山あり、畑あり、田ありでした。そして、でこぼこの砂利道を通学しました。水ぬるむ春になるとれんげが咲き、蛙がなき始め、初夏にはひばりやカッコウ鳥の鳴く下で麦を刈り、牛馬による田の代かき、雨の中でござを着ての田植え、冬には麦をふむ農家の人。こんなのどかな絵のような田舎の光景が見られました。また、椚田の原から館の上、そして狭間町にかけて桑の木や農作物で緑がいっぱいでした。 『創立百周年記念誌』より |
昭和34年(浅川小学校に通えるようになったあとの横一小学区)昭和20年代の後半になると戦災で焼けた八王子の町も整備が進みました。そして、昭和30年には6か村(横山村、由井村、元八王子村、加住村、川口村、恩方村)が八王子市に合併しました。それから4年後に浅川町が合併をしました。それにともない、狭間町の児童が浅川小学校に通学するようになりました。 『創立百周年記念誌』より |
昭和50年(旧上館小学校、旧殿入小学校ができたあとの横一小学区)昭和30年代後半になると、戦後のベビーブームで児童も増え始めました。そして、昭和40年代にはめじろ台の開発と京王帝都電鉄高尾線が開通により、大きく変わってきました。 宅地化が進み、山は造成されて団地ができました。先ず、館が丘団地ができて、上館小学校と殿入小学校が開校しました。それに伴い、館町の一部の児童が通学するようになりました。 『創立百周年記念誌』より |
昭和53年(椚田小学校ができたあとの横一小の学区)昭和40年代中頃を過ぎると、椚田地区の区画整理が始まりました。広々とした農地が次々と様子が変わり、あちらこちらに道路ができました。もう以前の面影がだんだんなくなってきました。その頃まわりには大きなマンションも建ち始めました。そして区画整理の工事も終わりに近づくころには、家もでき始めました。 ここで、椚田小学校の開校になり、椚田町の一部の児童が通学するようになりました。 『創立百周年記念誌』より |
昭和56年(旧寺田小学校ができたあとの横一小学区)南側の地域は、以前は山や田畑の緑が多いところでした。グルーンヒル寺田団地が建設され、それに伴い、広い道路が町田街道までつながりました。法政大学の開校に伴い、バスが頻繁に通るようになりました。それにより町の様子も変わり、田畑はなくなり、住宅が建ち並ぶようになりました。 『創立百周年記念誌』より |
現在(旧稲荷山小学校ができたあとの横一小学区)昭和57年、稲荷山小学校の開校に伴い、寺田町の児童が通学するようになった。その後、平成14年に上館小学校と殿入小学校が統合し館小学校となり、また、平成16年に寺田小学校と稲荷山小学校が統合し、緑が丘小学校となっている。 |