学校日記

2020年6月4日 木曜日 今日は何の日?

公開日
2020/06/04
更新日
2020/06/04

今日は何の日

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「新しい生活様式」の実践を
〜感染防止の3つの基本〜
1 身体的距離の確保
  できるだけ2m、最低でも1m空ける
2 症状がなくてもマスクを着用
3 家に帰ったら手や顔を荒らす
  手洗いは30秒程度かけて、水と石けんで丁寧に
八王子市のホームページから
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<R02.06.04>
【侵略による罪のない幼児犠牲者の国際デイ】1982年に起きたイスラエルのレバノンへの進行によって、パレスチナの罪のない多数の幼児が犠牲となったことを悼んで、パレスチナ問題についての国連緊急特別総会で、この日を記念日としました。今から38年前のこと。
この記念日は、肉体的・精神的・感情的な虐待の犠牲者である世界中の子どもたちが経験した苦痛を認識することを目的にしています。また、子どもの権利を守るために、国連の義務を確認する日でもあります。近年、多くの紛争地帯で、子どもに対する犯罪の数が増えていて、これを保護するためには、もっと多くの支援が必要となります。子どもたちを暴力的な過激派の標的から守るために、国際人道法や人権法を推進する活動が行われています。

〈パレスチナ問題〉
中世以降パレスチナに住んでいる主な住民だったアラブ人として「パレスチナ人」と呼ばれていて、彼らはイスラム教徒とキリスト教徒です。近代以降に世界各地から移住してきたユダヤ教徒のユダヤ人がイスラエルを建国し、この地を巡る紛争が生じています。
パレスチナの場所は、東をヨルダンに接する「ヨルダン川西岸地区」(三重県くらいの広さ)と、西を地中海、南をエジプトに接する「ガザ地区」(種子島くらいの広さ)に分かれています。両地区は、1994年以来パレスチナ自治区とされて、自治政府がありますが独立国家ではありません。人口約455万人(過半数が15歳以下の子ども)のうち約7割が難民で、8つの難民キャンプがあります。ガザ地区は周囲をイスラエル軍に完全に包囲されていて、人や物の出入りが厳しく制限されているため、人々は国連や支援団体からの援助物資などで命をつないできました。
パレスチナ難民が生じたのは、1948年のイスラエルの建国で第一次中東戦争でした。この戦争で70万人以上のパレスチナ人が故郷と家を失い、難民としてヨルダン川西岸地区やガザ地区、ヨルダン、レバノンなどの周辺諸国に逃れたのが始まりです。一般に世界中の難民は、国連難民条約によって国連難民高等弁務官の管理下にあるのですが、この条約以前から難民となっていたパレスチナ難民については、国連パレスチナ難民救済事業機関の管理下に置かれています。パレスチナ難民は老朽化した難民キャンプで、無国籍な状態で暮らしています。人々は市民権を得られなかったり、就労制限が課されていたりして、社会的権利を持つことができず、多くは第三国に移動することもできません。支援の内容も少ないのが現実で、パレスチナ難民の権利は侵害されがちです。
パレスチナ解放機構(PLO)は、1964年に設立されたパレスチナ人の政治的・軍事的組織でしたが、1974年に国連総会がパレスチナ人の民族自決権を承認して以来、全パレスチナ人を代表する組織として、唯一国際的に承認されています。設立当初、イスラエル抹殺の立場だったPLOは、組織の一部が無差別テロを行い、パレスチナ問題の解決を妨げる最大の障害となっていました。その後PLOとイスラエルは交渉によって解決することに合意しました。これを「オスロ合意」と言います。その内容は、イスラエルの生存権を承認し、PLOのテロ行為の放棄する見返りとして、イスラエルは占領地の一部分にパレスチナ人の自治を認めることでした。これをもとにパレスチナ自治政府が発足しました。しかし、イスラエルに軍事援助を行うアメリカが仲介の主導権を握り、またイスラエルが入植地の拡大政策をとったこと、オスロ合意を認めない過激派のテロなどで交渉が難航した後、その期限が切れてしまいました。
歴史的な経緯は、次のようなことでした。中東での覇権を目指していたイギリスは、第一次世界大戦でオスマントルコと戦い、戦争を有利に進めようと「三枚舌」外交を行いました。フランスとは戦後の中東を両国で分割する密約を結びながら、アラブ人にはパレスチナを含むアラブ国家の独立を認め、ユダヤ人にはパレスチナでの国の建設する支援を約束していました。紀元1世紀にユダヤ王国がローマ軍に滅ぼされて世界に離散していたユダヤ人は、19世紀末以降、特にヨーロッパでの反ユダヤ主義の高まりのなかで、自分たちの国造りを目指してパレスチナへの移住を始めました。更にドイツのナチスによるユダヤ人への迫害がこの移住に拍車をかけ、600万人のユダヤ人が虐殺された「ホロコーストの悲劇」が、もう一つのパレスチナ問題の背景となっています。
第二次世界大戦が終わる頃、パレスチナ人とユダヤ人との衝突や、テロの標的となったイギリスは、1947年にこの問題の解決を国連に委ねました。国連はパレスチナの分割決議を採択しましたが、アラブ人がこれを拒否。1947年にイギリス軍がパレスチナから撤退すると、ユダヤ人が当事者同士の合意がないままイスラエルの建国を一方的に宣言してしまいました。国連の分割決議に反対するアラブ諸国は、イスラエルに侵攻し、第一次中東戦争が勃発しました。この戦争で、イスラエルが逆に国連の決めたユダヤ人の領土をはるかに超えて侵略し、追い出されたパレスチナ人が難民となり、イスラエルが侵攻しなかったヨルダン川西岸地区とガザ地区は、それぞれヨルダンとエジプトが占領しました。以降の3回にわたる中東戦争でイスラエルは全パレスチナを支配し、シリア領のゴラン高原やエジプトのシナイ半島も占領しました。国連の安全保障理事会が占領地からの撤退決議を採択しましたが、イスラエルはシナイ半島の返還を除き、占領状態を続けています。