学校日記

2020年6月2日 火曜日 今日は何の日?

公開日
2020/06/02
更新日
2020/06/02

今日は何の日

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「新しい生活様式」の実践を
〜感染防止の3つの基本〜
1 身体的距離の確保
  できるだけ2m、最低でも1m空ける
2 症状がなくてもマスクを着用
3 家に帰ったら手や顔を荒らす
  手洗いは30秒程度かけて、水と石けんで丁寧に
八王子市のホームページから
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<R02.06.02>
【裏切りの日】1582年のこの日、本能寺の変で、戦国武将 織田 信長は、家臣だった明智 光秀に裏切られて攻められ、滞在中の本能寺で自害しました。今から438年前のこと。中国地方の毛利攻めに苦労していた羽柴 秀吉(豊臣 秀吉)の応援を命じられた明智 光秀は、進軍の途中で道を変更し、本能寺にいる主君 織田 信長を襲いました。襲撃を知った織田 信長は「誰の襲撃か?」と近侍(きんじ 傍に仕える人)の森 蘭丸(当時18歳)に尋ねたところ、家臣の明智 光秀であるとの返答があり、織田 信長は「是非もなし。」と言って自害したことが、『信長公記』で後世に伝えられています。

1582年の出来事には、ローマ教皇グレゴリウス13世がグレゴリオ暦(1年365日で400年に97回の閏年を置き精度向上 時間の流れを年・月・週・日の単位にしたもの)の導入、安土城(織田 信長が建造)が炎上(原因不明)、などがありました。

さて、織田 信長の家臣だった明智 光秀も 小姓(こしょう 武士の職の一つ 武将の身近で諸々の雑用を請け負う)の森 蘭丸も、もともと信長から信頼を得ていた人物でしたが、その扱いに少し違いがあったらようです。蘭丸が特別だったとされる逸話がありました。

エピソード1
ある時、信長は蘭丸に褒美を与えようとしましたが、蘭丸は信長が提示する物を望みませんでした。そこで信長は、お互いの手の平に蘭丸が欲しがっているものを書き、一致したら与えようと言い出します。すると見事に内容が一致したのです。蘭丸が欲しかった物とは、亡き父の領地である近江坂本6万石で、それは光秀の本拠地になっていました。この2人のやりとりを襖(ふすま)越しに聞いていた光秀は信長を恨んで、本能寺の変を引き起こす動機の1つとも言われています。

エピソード2
本能寺の変の約1か月前のこと、信長は 徳川 家康の接待役を光秀に命じました。喜んだ光秀は贅沢の限りを尽くして家康をもてなしましたが、それを知った信長は、「関東の上客にここまでのもてなしをするなら、朝廷からの勅使を迎える時にはどうするつもりだ!」と怒って、接待役を解任してしまいます。反省しない光秀の態度に、信長は「誰か光秀の頭を叩け!」と命じました。誰も名乗りを上げようとしないなか、蘭丸が立ち上がって鉄扇で光秀を叩いたのです。

〈敵は本能寺にあり〉
江戸時代中期の軍記物『明智軍記』の一節にある記述で、明智 光秀が本能寺の変の際に発したとされる言葉です。主君である織田 信長から命じられた光秀は、「討つべき敵は本能寺にいる信長だ。」と言って、そのまま進路を東にり、京都の本能寺に滞在中の信長を襲ったことから、本当の目的や目標が別にあるということに使われます。

〈本能寺の変を題材にした映画紹介〉
『本能寺合戦』1908年 日本初の時代劇とされている映画です。
『敵は本能寺のあり』1960年
など